振り返れば、教員住宅にゴザをしいて、手のひらに乗る程の小さな作品を作り始めた頃から、早40年が過ぎようとしている。
私は彫刻を専門的に学んだこともなく、師といわれる人について教わったこともない。全くの我流であり、独学である。彫刻の材料も山や川で拾ってきたり、ゴミとして捨てられたもの、近所の方や親戚、知人にいただいたものばかりである。多くは朽ちて半分腐食があったり、穴や節、よじれたり曲がったりしたものである。始めのうちは、いかにそれを避けるか等に苦労したが、今は朽ちたものは朽ちたように、曲がったものは曲がったように、避けずに、敢えてそれを活かすように、頭や手が勝手に動くようになってきたように思う。
彫刻材料としては、市販のキチンとしたものがたくさんあり、その方が彫り易いとも思うが、打ち捨てられたもの、朽ちゆくものにも命ありだ。「草木国土悉皆成仏」、「一切衆生悉有仏性」という、人間だけでなく、草木にも命ありだ。打ちすてられるものこそ、一番大切にされなければならないというのが、私の彫刻に対する思いである。
現職中は、土日や長期の休みに意図的に時間をつくり、その時間は彫刻に没頭するように心掛けてきた。仕事上の悩みや労務対応のストレスの解消には、野山を走ることと彫刻が何よりの薬となった。まさに一石二鳥であった。
現在は、一切の仕事から解放されて、まさに彫刻三昧。気が乗れば、朝から夕までノミを握っていることがある。60歳の退職を過ぎた頃より、肩の力が抜けたというか、気負って彫ることがなくなってきた。以前は家族の者が見ていても気になっていたのが、人が見ていても気にすることなく、あるがままの自分を曝け出せるようになってきた。
これからも、健康である限り、”一日一回はノミを握る”を心がけ、コツコツやっていこうと思っている。
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